『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』に書かれている「無能の証明」。
実生活でも目の当たりにします。
おそらく、みなさんも職場で該当する人がいるのではないでしょうか?
「無能の証明」とは、「問題行動の5段階」における最終段階です。
現代アドラー心理学では、人間の問題行動について、その背後に働く心理を5つの段階に分けて考える。
人間の問題行動は、すべてこのいずれかの段階に該当する。
なるべく早い段階で対策を講じなければならない。
第1段階「賞賛の要求」
第2段階「注目喚起」
第3段階「権力争い」
第4段階「復讐」
第5段階「無能の証明」
「賞賛の要求」→褒めてくれ
「注目喚起」→悪いことしてでも注目してほしい
「権力争い」→反抗し、自分の力を示す
これでも注目してもらえないとなると、
「復讐」→あえて憎しみを求める「愛してくれないなら憎んででも注目してほしい」
自傷行為や引きこもりもこの「復讐」の一環だという。
そして、それでもうまくいかない。
何をやっても注目してもらえない。
自分の存在を認めてもらえない。
となったときに、最終段階「無能の証明」。
人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分にはなにも解決できないと信じ込むようになる。
そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。
周囲に対しては、「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ。」と表明するようになる。
自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとする。
課題に取り組もうとする自分、また物事を考えようとする自分に対して、自らブレーキをかける。
そして、ただただ厭世的(※)に課題を拒絶し、周囲からの期待も拒絶するようになる。
※厭世的(えんせいてき):人生や世の中を悲観しており、生きることが嫌になっているさま。人生に価値を見出せず絶望しているさま。
簡単に言えば、現実逃避。
賞賛も嫌悪も向け続けてもらえないなら、とにかく無気力に、すべてに関与しない。
しかも、この無能の証明が面白いのは、「本人は無自覚であることも多いであろう」ということ。
なぜ自分がそう考えるのかわからない。
本当はできるはずのこともあえてできないフリをして、無能である自分を装う。
中途半端にできてしまって、それ以上期待されたり、失望されたりするのが嫌だから。
でも本人は、本当にできないと思ってしまっている。
できないと思わざるを得ないと思ってしまっている。
そんなことないのに。
人間の無意識というか、潜在意識って非常に面白い。
そして、それを自覚できるかどうか、が人間としての生きる力みたいなものに大きな影響を与えてるんじゃないかと思う。
自覚というか、「無意識のうちにそう思い込んでしまっている可能性があるよ」ということが常に意識的に展開できているか、ということ。
「無意識を意識しろ」ってことではなくて。
「無知の知」的な話。
自分がなぜそう感じているのか、自身ですら完全に掌握することは難しい。
しかし、「自身を掌握することが難しい」ということを知るかどうか、それを常に意識できるかどうか、はそんなに難しいことではないのかな、って。
難しいことじゃないなら、知らない人はまあ能力的なものもあるだろうから百歩譲っていいとして、「できない」と思い込んでる人は、どうなのかな、って。
できるなら、できることやりましょう。